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御神体修復過程
藜稲荷神社の前橋藩旧藩士であり元氏子総代宅より発見された「御神像」は、その損傷が激しく、御神像の裏に書かれていた墨書の鑑定の後、幾多の文化財保存修復を手掛けてきた、修復家・藤田尚樹氏に修復を依頼しました。
修復前・御神体
修復前・厨子
修復前・厨子付属帳
ー初期診断結果ー
<面部>
両手の割損、白狐の耳の欠損が見られる。その他、全体的に鼠咬被害あり。岩座正面の板材が前後に入れ替わっている。また、輪光背の欠損、白狐の尾の先端部が欠損、耳の欠損、鼻先と後ろ足の膝に割損が見られる。彩色の剥落、剥落によって露出した生地の痛みが認められる。
<厨子>
厨子基底部が亡失している。厨子表面の黒色系の塗装が剥がれ、木地が露出している。屋根の縁回りが経年により摩耗しており、背面上部に細かい鍵傷は横一線に認められ、扉の開閉による摩耗被害がある。
<厨子付属帳>
経年による生糸の劣化でぼろぼろになっており、元は朱染めの花, 草紋が刺繍されていたものであるとみられる。
-修復前の状況整理-
<概要>
本像は、上半身に大袖の長袂衣を着け、その上にカイトウ衣を重ね帯を結び、背子を纏い裙を着す。沓を履き、左足をやや下方に垂らす遊戯形で白狐の上に坐す。頭髪は左右に振り分け、両耳を覆い隠すように垂れ、頭頂に花形の髺を結い、天冠台全面には三角形の宝冠(欠損)を載いている。左手は前方に屈臂し、掌を上にして宝珠を乗せる。右手も前方に屈臂し、宝剣を執る。
白狐は、頭部は左に首を降りミカエル姿勢をとり、胴体を本尊に平行にして四肢を曲げて坐し、尾を上方に伸ばす。岩座は正面と両側面に岩を配す。背面省略。光背は、柄を残し亡失。残る形から輪光背を配す。
厨子は、方形の観音開き。全面漆塗り。正面両扉に三つ巴の家紋を金箔で配する。内部は総金箔貼り。
<品質構造>
葉樹(桧か)。胡粉下地。彩色。本躰は、膝前から白狐の頭部と体側(左四肢)から先を別材で矧ぐ。
尾は別材。岩座の基礎部(方形型)は広葉樹(タモかセンか?)を使用。岩座は流木を使用する。
<損傷状況>
汚れが著しく彩色も色あせ、部分的に剥落しているが、後補彩色。面部の殆どを鼠咬により亡失している。左手首から先と右手の一部を欠損している。白狐の両耳は欠損し、尾は鼠咬による痛みが目立つ。
光背は柄と輪光背の一部を残し失われている。岩座は岩形の部材が三個亡失しているが、残りの岩形の部材は、焼損による被害がひどく、使用に耐えられる状態ではなかった。台座天板部の裏側に墨署名あり。(仏師・久下新八により天保三年三月に新像完成したことが分かる)
白狐と岩座の間から現代の接着剤がはみでている。岩座の部材も全面材と背面材が入れ替わっており近年、修理の手が入っていた様子を窺わせる。岩座下の黒色の方形座も後補。
厨子は、全体に部材が緩み、構造的に郷土が低下している。基底部(框、飾り框など)を亡失している。
-修理修復方針-
本像は彫刻面のダメージが大きく、特に鼠咬による面部の亡失は痛々しい。今後、再び祀られることを鑑みて、面部の復元作業は勿論のこと、その他の復元作業も必要とし、復元を行うこととした。
厨子内の基壇部(本像が納まる台座)は、多重装飾基壇とした。
*多重装飾基壇とは、各段に様々な文様を刻み、最下部には四隅を如意形に表し、全面に雲形の厚肉彫を施す。
厨子は、全解体した後、各材の補強を行う。本堅地漆塗りとし内部には、金箔を施した。亡失した基底部の復元作業を行った。形状は、本躰が簡素な矩形形であることから、無装飾の2重框を補う。
厨子付属の帳は、新規に制作した。
<現存御神体造像>
仏師・久下新八(くげ しんぱち)
文化・文政期に川越境町を中心に活躍した在地仏師の一人。生没年不明。
主な制作
文化十五年(1818年)の西貝塚公民館薬師如来像
文政二年(1819年) 平方領家馬頭観音堂聖観音像
文政七年(1824年)平方領家浅真寺月江正文和尚像
文政九年(1826年)地蔵菩薩
<修復>
藤田尚樹(ふじたなおき) 文化財保存修理修復家
群馬県重文追薬師立像、栃木県重文専修寺阿弥陀如来立像の解躰および台座、光背の復元制作に当たっている。 同時に、仏像制作及び修復に不可欠の漆工技術の専門家でもある。
1966年 東京都生まれ
1993年 東京造形大学美術二類卒業
1995年 東京藝術大学大学院保存技術講座卒業
1999年 同大学大学院博士課程満期修了
1999~'01年 同大学非常勤講師
群馬・得成寺/不動明王坐像(県重文)
栃木・能仁寺/釈迦三尊像(県重文)
日光・輪王寺/天海僧正(県重文)
栃木・益子西明寺/十一面千手観音像、如意輪観音像(県重文)ほか
栃木・佐野厄除大師/本堂彫刻