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藜稲荷と前橋藩の歴史・沿革

1699年

​(元禄12年)

風水害に見舞われた前橋では、利根川の浸食によって前橋城が半壊。

この災害により前橋藩の財政は酒井氏の時代より困窮。

1749年

(寛延2年)

越前松平朝矩が国替えにより酒井忠恭と入れ替わりとして播磨国姫路藩より15万石をもって上野国前橋藩へ入封。

この際、本来であれば減石移封となるはずが、同じ石高の前橋藩へと移封となったため、祈願をおこなっていた伏見稲荷大神分霊を勧請して、前橋藩分領の武州川越の赤沢の地に奉斎。

​→「出世稲荷」として信仰を集めるようになる

1767年

(明和4年)

前橋城は本丸まで浸食され、武蔵国川越藩主秋元氏が転封となり空城となったため、越前松平氏は川越城に居城を移し、前橋藩は一時廃藩となる。

1831年

(天保2年)

松平斉典(朝矩から数えて第4代藩主)が現在の藜稲荷御神体(荼吉尼天・だきにてん)の造像を、川越境町を中心に活躍した在地仏師、久下新八に依頼。

​>修復の過程について

1833-39年

(天保4-10年)

​<天保の大飢饉>

1835年

(天保6年)

松平斉典が従四位上少将に昇格、15万石から17万石に加増を受ける。

→当稲荷は「出世稲荷」としてさらに崇敬を集める。

1848年

(嘉永元年)

松平斉典が現在に残る川越城本丸御殿を建設。

1868年

(文久3年)

長らく陣屋となっていた前橋城を修築の後、第7代藩主・松平直克が念願の前橋城に帰城。

その際、稲荷も城内に奉還、奉斎された地名の「赤沢」を転訛して「藜(あかざ)」稲荷と称し奉還された。  

1871年

​(明治4年)

明治維新に及び前橋城壊城に伴い、信仰篤き旧藩士の人たちにより、氏子である梅津家分地(現在の文京町一丁目(旧高田町)39番5号)に奉還。

1952年

​(昭和27年)

藜稲荷神社は、昭和27年宗教法人稲荷神社として認証。

1955年

​(昭和30年)

この年の半ばごろから御神体の所在が不明となり、それに伴い社殿も損壊。

2006年

​(平成18年)

御神体が旧氏子宅より発見される。

2007年

​(平成19年)

文化財保存修復家・藤田尚樹氏に完全修復を依頼し復元。

​>修復の過程について

2014年

​(平成26年)

社殿の再建を開始。

藜稲荷を川越・赤沢の地に奉斎以来「265年記念祭」なった10月15日を機に氏子有志と支援者によりプロジェクト始動。

2019年

​(令和元年)

社殿再建計画後初めての鳥居を奉納。