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由緒・ご利益​

藜稲荷神社御神

<荼吉尼天(だきにてん)>

別名:白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)

ダキニテン

 荼吉尼天は、一般的に、左手に如意宝珠または火焔宝珠を載せ、右手に剣をもち、白狐にまたがって空中を疾駆している天女の姿をしております。自由自在の通力を有し、六月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べるといわれております。

「荼吉尼」の起源は仏教、元はインドの女神であります。「荼吉尼(だきに)」とは梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したものです。元々は農業神でありましたが、後に人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになりました。

この神が仏教に取り入れられると、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、死者の心臓であれば食べることを許可された神とされます。
さらに日本では、狐神信仰と稲荷が結び付けられ、恵比須の化身であり、恵比須・稲荷の化身・神使は狐であるとされ、稲荷神として信仰の対象となっておりました。狐は屍を喰らうとの習性といつからか狐が女神と共に描かれるようになったことなどから、狐稲荷=荼枳尼天の方程式が成り立ち、荼枳尼天は稲荷神とされたと言われています。


また、一般的に「荼吉尼天」は豊川稲荷の御神体として祀られ、その豊川稲荷開基の今川義元から、織田信長や豊臣秀吉、九鬼嘉隆、徳川家康などからの帰依を受けたとされ、江戸時代になると、越前大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受けました。豊川稲荷は円福山 豊川閣 妙厳寺にあり曹洞宗の寺院であり、稲荷神社にはこの「荼吉尼天」が鎮守堂に祀られております。
この御神体が築造られた頃、越前大岡忠相が参拝所を設けるなどして、庶民にも信仰が広まっていました。徳川御家門の一つである越前松平家も、それにならい、川越藩主4代目松平斉典が徳川家に伝わる「荼吉尼天信仰」を鑑み、伏見稲荷大神分霊を勧請して当社は奉斎に至ります。当社は伏見稲荷神社に祀られる稲荷神と荼吉尼天が習合した御神体として、「荼吉尼天稲荷神」を造像、あらためて御神体としております。これにはかつて伏見稲荷大社の神宮寺としてあった、本願別当愛染寺がきつねをお使いとする「荼吉尼天」を祀っていたことにも由来すると考えられております。 

 当社は結城秀康の後裔(こうえい)である越前松平家が寛延年間(1748-1751) 1749年の国替えの際、京都伏見稲荷神社に「おちぶれて裾に涙のかかる時、人の心の奥ぞしらるる」と献詠(けんえい)して只官(ただひたすら)一門の栄達を祈願した後、播磨(はりま)国姫路藩より越前松平朝矩(とものり)が15万石をもって上野前橋藩へ入封できたことから、伏見稲荷大神分霊を勧請して分領としていた武州(埼玉)川越の赤沢の地に奉斎しました。

この国替えは、越前松平朝矩がまだ幼いことを理由としたものであったため、本来ならば減石移封となるところが、減石せずに済んだことから、当社はこのころから「出世稲荷」と称し尊信厚く崇められるようになりました。
 
 その後、松平朝矩(とものり)から数えて川越藩主4代目で名君として知られる松平斉典(なりつね)の時代、天保の大飢饉の時期でもあり、領民と人心の立て直しや様々な財政復興の政策を打つ中一定の成果を上げ、天保2年(1832年)に現在の稲荷御神体(荼吉尼天・だきにてん)の造像を川越境町を中心に活躍したいた在地仏師、久下(くげ)新八に依頼しました。

斉典(なりつね)は、現在に残る川越城本丸御殿を、嘉永元年(1848年)に建設した藩主としても知られております。

 その後、斉典(なりつね)は、天保6年(1835年)に従四位上少将に昇格、また政治的事情から、15万石から17万石に加増を受けたことなどから、当稲荷は「出世稲荷」としてさらに崇敬(すいけい)を集めこととなりました。

 その後、長く廃城の状態が続きましたが、幕末の文久3年(1863年)になって時の第7代藩主・松平直克(なおかつ)が念願の前橋城帰城が許され、長らく陣屋となっていた前橋城は慶応3年(1867年)に修築、再び前橋藩に移ったのです。その際、この稲荷も城内に奉還、地名の赤沢を転訛して「藜(あかざ)稲荷」と称し奉還されました。